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サンクト・ペテルブルクでのドストエフスキー文学散策

サンクト・ペテルブルクを訪れた観光客の多くは、ネヴァ川と数々の運河、そして中心部歴史地区のバロック様式とクラシック様式の建築群のハーモニーの美しさに魅せられ、ロシア旅行で最も心に残る街であったと称えます。
筆者の限られた個人的な思い出ではありますが、半世紀近く前初めて当時レニングラートと呼ばれた街の散策が、その数年前となる中学生時代のドストエフスキー「罪と罰」の強烈な読書体験にもとづくものであっただけに、悪臭と埃舞ううら寂れた横町を見出そうとあえて場末の灰色の景色の中を彷徨ったものでした。
1923年まではエカチェリーナ運河と呼ばれていた現在のグリボエードフ運河が湾曲する美しさに目を奪われながら小説の中のS横丁やK橋にたどりついたときは、思わずシャッターを押しまくったものです。
帰国後恩師にその写真を見せたところ、角の建物は、その2階の一室に、朝日新聞サンクト・ペテルブルグ特派員として二葉亭四迷が 1908(明治41)年7月17日から1909年3月18日まで住んでいたと教えられました。
この一帯は、職人や商人、下級官吏や浮浪者が住む貧しい地域だったそうで、19世紀の中頃に建てられた飾り気のない殺風景な4、5階建ての安アパートが建ち並び、そうした住民を相手にした各種商店や安酒場、大衆食堂、それに娼家が集まっていたとのこと。
ピョートル大帝によるサンクト・ペテルブルクのまちづくりとして、金の尖塔がランドマークとなっている海軍省を中心にそこから放射状に道をつくるという計画が進められました。ネヴァ川とは直角に真直ぐ南南東に伸びた道がゴローホヴァヤ(エンドウ豆)通り、そのゴローホヴァヤを対称軸として斜め左に伸びた道がヴォズネセーンスキー大通り、斜め右に伸びた道が アレクサンドル・ネフスキー修道院まで全長4.5kmのネフスキー大通りです。
デパート、ホテル、劇場、宮殿、教会、レストラン、カフェ、華やかな商店の建ち並ぶ繁華街ネフスキー大通りは表の道であり、ヴォズネセーンスキー大通りとゴローホヴァヤ通りに挟まれたあたりは背筋がぞくぞくとさせられる世界、そんな「罪と罰」の舞台を幾度歩き回ったことでしょう。しかし時代と共に街並みは小奇麗になり、ソ連時代「平和広場」と呼ばれ現在は帝政時代のかつての呼称に戻った「センナーヤ(干草)広場」の近く主人公が酔いどれマルメラードフと出会ったあたりには洒落たタイ焼きの店が出来たり、S(ストリャールヌィ(指物師))横丁には、ドストエフスキー像が壁に飾られ小説の主人公をまるで実在の人物の如く「ラスコーリニコフの家」という碑が壁に掲げられています。そこからK(コクーシキン)橋を渡り730歩先の金貸しの老婆が住んでいた建物の1階には24時間と表示されたスーパーマーケットが現在営業をしているという様変わりです。
さて、時代をさかのぼって18世紀、モイカ川に近い一帯は、海運や造船にたずさわる海運省の関係者たちの居住地であったのですが、井上靖の「おろしあ国酔夢譚」で知られる日本人漂流民 大黒屋光太夫が1791年2月から11月までの間サンクト・ペテルブルグに滞在していた折に、娼家(プブリーチヌィエ・ダマー(公衆の館))を数回訪れたその場所 (ペートルボルグの娼家(じょろうや)は王居の西の方に一街(ひとこうじ)を隔ててあり) がこの界隈ではないかと思われます。
ドストエフスキーが生まれるよりも30年ほど前、 蘭学者 桂川甫周が大黒屋光太夫から聞きとった貴重な記録「北槎聞略」、その中の娼家についての一部を抜粋します。
「・・・・・・其後また此処を通りし故、先頃の礼を演(のべ)んとて立よりければ、鴇母(かしや【やりて、仲居のこと】)夫婦出迎へて、今宵は我々夫婦のもてなしなればしいて一宿し給へとて、盛筵(盛宴)を設けてもてなし、此方の物語などうち聞きつつ夜明けて帰らんとせしとき銀拾五枚おくりけるとぞ。 光太夫帰国のせつ暇(いとま)ごひに立よりければ、エリソウェタは莫大小(めりやす)の裏脚(きゃはん)に旅中備用(たびのようい)の薬など取そへ、餞別(はなむけ)にとて贈りける。 光太夫は娼家(ゆうじょや)へ行毎に種々のおくり物を得ければ、キリロ笑ひて云よう、扨(さて)も光太夫は果報の者かな、今より万事をすてゝ娼婦に物もらふ事を生活(すぎわい)にせよ、上もなきたつき成べしと戯れしとなん。 娼家(ゆうじょや)はペートルボルグに三所、ワシレイ・ヲストロウに三所あり。 花費(あげだい)は銀五枚より壱枚までなりとぞ。 其外 私窩(かくしばいじょ)は所々にあれども、殊之外之厳禁(はつと)にて、事顕(あらわ)るれば売花(みをうる)の婦人嫖客(きゃく)までも罪科に処せらるゝとなり。」

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