スターラヤ・ルッサ
モスクワから北上する夜行列車に揺られ、夜明けに到着した古都ノヴゴロド。教会のネギ坊主の数々に圧倒されながらヴォルホフ川に沿ってその日宿泊するホテルに向かう道中、南にイリメニ湖を目にした途端、ふと思い立ってスターラヤ・ルッサへ足を運んでみたくなったのでした。湖を100㎞程半周すれば、ノヴゴロドの対岸には作家フョードル・ドストエフスキー(1821-81)が晩年を過ごしたスターラヤ・ルッサに行きつくことに気が付き、同行者たちの賛同を得てバスをそのまま南下させたのです。
筆者にとっての個人的な思い出となってしまいますが、中学時代読んだ「罪と罰」、そして高校に入学するや「カラマーゾフの兄弟」の登場人物の魂の叫びに心奪われたものでした。当時、小さな活字がぎっしり詰まった文庫本はかび臭いような、そして米川正夫氏の翻訳が独特の語り口で不思議なリズムを奏で、それがドストエフスキーの小説にひどく合っているように思えたものでした。そんなイメージを覆すように作家生誕150年の講演会では当時五木寛之が「明るく楽しい」ドストエフスキーと半ば逆説的に唱えたことが記憶に残り、さらに、ロシアを訪れ白夜の運河の街を散策し、そして、生誕180年の秋スターラヤ・ルッサを訪れることとなったことで作品への思いは一層深まっていったのです。
作家の誕生日は旧暦で10月30日、新暦で11月11日、ですから、今年の秋はドストエフスキー生誕200年の記念すべき年でもありますね。
湖畔の林を眺めるうちにスターラヤ・ルッサの町が近づいてくるだけで、カラマーゾフの舞台に入り込むような感覚にひたります。ドストエフスキーの通ったゲオルギー教会、緑に塗られた板壁のドストエフスキーの家、庭にはスメルジャコフがなるほどここから誕生したと思える風呂小屋、正に小説のスコトプリゴーニエフスクの世界です。
ドストエフスキーは、十代半ばから二十代にかけてペテルブルクの街の住まいを十六回も移り変わり、シベリア流刑からペテルブルクへと戻ってきた1859年から最期を迎えるクズネーチヌィ市場と並ぶアパートに至るまでやはり十数回の引越し、最初の妻マリヤ(1824-64)が亡くなってから三年経った1867年に再婚したアンナ(1846-1918)とはその直後から四年間ヨーロッパ生活をしていたこともあって彷徨生活が続いています。
ロシアへの帰国の翌年(1872年)から死の前年となる1880年まで毎年夏に鉱泉療養のためそして都会の喧騒から離れた生活を子供たちに体験させようと訪れることになるスターラヤ・ルッサが唯一の安定した生活の場となったのでした。1876年には初めて自分の家を購入したことで、晩年の大作に専念していく環境が整ったといえます。
ジュネーヴで誕生した長女ソフィアは僅か三ヶ月に満たぬ命、四番目の子アリョーシャは1875年スターラヤ・ルッサで誕生したのですが1878年三歳を前にして夭折、夫婦の悲痛は如何ばかりのものであったでしょう。カラマーゾフの三男をアリョーシャという重要な人物に据えてドストエフスキーが最後の大長編に取組んだのはその悲しみの年でした。