ウラジヴォストークのハリウッドスター
「ローマの休日」で鮮烈なデビューを飾ってからというもの映画史の中で燦然たる輝きを放つ女優オードリー・ヘップバーン(1929-93)は「謎に満ちたロシアの魂」「その風貌全体、声、彼から湧き出る力からは魂の揺らぎが伝わってくる」と同時代の俳優仲間ユル・ブリンナー(1920-85)の思い出を語っています。
シャムの王様を演じてアカデミー賞主演男優賞を受賞したユル・ブリンナーのミュージカル「王様と私」(1956年)は、封切り当時小学1年生であった筆者にとって終盤受容れざるを得ない死の畏れを感じ取り強く記憶に残った映画でもありました。
実はユル(ロシア語ではユーリー)・ブリンナーは彼の母も祖母もロシア人であり、没後四半世紀ばかりを経た2012年には生れ故郷ウラジヴォストークに記念像が建てられました。「飛鳥2」も寄港した埠頭ターミナルに隣接してシベリア鉄道終着駅があり、その駅前広場からアレウツカヤ通りを北上して350m、スヴェトランスカヤ通りと交差するやや手前、通り沿い左手の高台に、そのハリウッドスターの生家(ソ連時代は極東船舶公団が所有)とシャム王姿の銅像が立っています。
モンゴル人の父、ロマ(ジプシー)の母、生れはサハリンなどとその出自を煙に巻き、出演映画のパンフレットにもその様に記されていて当時映画少年だった筆者は妙に好奇心を擽られたのでした。
息子ロック・ブリンナー(1946-)がルーツを探り、著書Empire & Odysseyの中で、スイス人ユリウス・ブリーネル(1849-1920)という実業家について説き起こしていきます。1874年にウラジヴォストークで海運業に手を染め、漁業、林業、冶金へと事業を広げていき、ロシアに帰化した1890年にはサハリンからの途上の作家チェーホフとお茶を共にするなど町の名士でもありました。ブリヤート商人の娘ナタリア・クルクートワ(1866-1926)との間に生まれた次男ボリス(1889-1948)が、後の映画スターの父であるというように話は続きます。
1927年ロシア人の母マルーシア(1889-1943)と姉ヴェーラ(1916-67)と共にユル・ブリンナーは幼少期を過ごしたウラジヴォストークを去り満洲ハルビンへ亡命、さらに日中間の紛争を恐れて1933年にはパリへと渡り、ヂミートリエヴィチ一家のロマ楽団に加わります。レストラン「エルミタージュ」でギターを弾きロシアの唄を歌っていた青春時代。一家の末っ子アリョーシャ(1913-86)とは後年「二つのギター」等のロマ(ジプシー)の唄をレコード化、現在インターネットでユル・ブリンナーのロシア語の歌声を聴くことが出来ます。
1941年渡米した時には英語もままならず、作家チェーホフの甥であるマイケル(ロシア語ではミハイル)・チェーホフ(1891-1955)が演出家としてアメリカに進出していたこともあり彼から演劇指導を受けたのでした。ミハイルの教え子にはイングリッド・バーグマンやグレゴリー・ペック等がいて彼らが出演したヒッチコック監督の映画「白い恐怖」(1945)ではブルローフ博士を演じるミハイル・チェーホフの姿を偲ぶことも出来ます。
ハリウッドデビュー後のユル・ブリンナーは、黒澤明「七人の侍」の西部劇翻案「荒野の七人」(1960)での志村喬に相当する役、アメリカ版ロシア文芸映画「カラマーゾフの兄弟」(1958)の長男ミーチャや「タラス・ブーリバ」(1962)のコサック連隊長タラス・ブーリバ、キエフ出身の監督アナトール・リトヴァク(1902-74)の「追想(アナスタシア)」(1956)でのロシア人将校セルゲイ・ブーニン、そしてハンガリー動乱を背景とした「旅」(1959)のスーロフ少佐役ではロシア語の科白と歌を聞かせてくれます。
ところで、人の流れ、文化の動きを見るにつけ現地ガイドの話が思い出されます。「ウラジヴォストークという地名は東(ヴォストーク)を領有するという意味だけではなく古代スラブ語では東と調和する、仲良くするという意味もあるのだ」と。
【明治40年日魯漁業の前身堤商会を設立した堤清六(中央列左から2人目) 平塚常次郎(前列左から3人目) らが163トンの宝寿丸でカムチャッカへ初漁と買い付けに向かった時の白黒集合写真(アムール河畔ブロンゲ岬で撮影) を元に1949年油絵で描き起こした作品 (652mmx803mm)
堤の左隣がユル・ブリンナーの父親(? – おそらく年代からするとユル・ブリンナーの父はまだ18歳の学生であり、祖父がカムチャッカ漁業に進出していた58歳であるため、カレンダーの説明は祖父とすべき誤記と思われる)】
【ウラジヴォストークの日本語ガイド オリガさん
- 彼女が 「ウラジヴォストークという地名は東(ヴォストーク)を領有するという意味だけではなく古代スラブ語では東と調和する、仲良くするという意味もあるのだ」と説明してくれた】