カザンとトルストイの青春
モスクワから東に向かって飛ぶこと1時間半、雄大なヴォルガ川を眺めながら下降してゆく先にタタールスタンの中心都市カザンがあります。
7~8世紀ヴォルガ川畔に住みついたトルコ系遊牧民ブルガールがタタール人のルーツとも言われており、13世紀にはモンゴル帝国の配下に置かれましたが15世紀にカザン・ハン国が成立、そのタタール人のムスリム国も16世紀半ばイワン雷帝によって征服され、ロシアのヴォルガ川以東進出への突破口となったそうした歴史上の転換を目撃した地理上の要でもありました。
都市人口125万人の内ロシア人とタタール人が現在ほぼ同数居住し、市の中心部のカザン・クレムリン構内にはロシア正教の大聖堂とイスラムのモスクが並立する非常にユニークで興味深い文化に触れることが出来る場所といえます。
石油、化学プラント等による経済発展も著しく、2012年に日露投資フォーラム開催、日本からは枝野経済産業大臣率いる200名の代表団がカザンを訪問、2013年のユニバーシアード競技大会には600名以上の日本選手が参加、そして2018年のサッカーワールドカップ会場として注目された「カザン・アリーナ」及び空港に隣接した「エクスポ・センター」に於いて2019年8月には技能五輪が催されることもあって、その施設下見のアテンド役でその年私はカザンを訪れる機会に恵まれました。
目を惹く彫刻や洒落た店に見とれつつ散策する楽しみに満ちたバウマン通り、まるでテーマパークの様な景観のタタール人旧居住地区、カザンカ川畔の遊歩道、そして何よりレーニンやレフ・トルストイが学んだカザン大学が市の中心部に広がっていることが魅力です。金沢大、埼玉大、筑波大、東京外大との交換留学も行われているとのことで、日本からやってきた学生からは住み易い町との評判も聞きます。
作家トルストイは、僅か2歳で母を亡くし、次いで8歳で父を、さらに13歳の時、後見人である叔母アレクサンドラを亡くしたこともあって、もう一人の叔母ぺラゲーヤの世話となるため1841年カザンに兄妹と共に引っ越したのでした。祖父がカザン県の知事を務めた時期ぺラゲーヤ叔母さんがカザンの貴族ユーシコフに嫁いだという縁で少年トルストイの環境が大きく変わったのです。兄3人も学んだカザン大学に1844年16歳のトルストイは入学、東洋学部アラビア・トルコ(タタール)文学科で学び始めたものの、女子大の舞踏会や祖父や叔母の人脈による社交の場に顔出しし過ぎて学業に身が入らず落第。法学部に転部するも、多感で深く思索をめぐらせるトルストイには大学生活が合わず1847年には退学してしまう、そんな一筋縄ではいかない青春時代...。
若き日に顔に劣等感を持ち放埓な行動に走ったというトルストイの逸話を聞いた高校時代の私は屈折した青年の心に共鳴し、そんな彼の並ではない美しく純粋な視線、鋭い観察力、現実を実に生き生きと描写する力に対して強い関心を持ったのでした。
カザンの街を歩くことは、トルストイの青春に思いを馳せると同時に、私自身の若き無様な日々を反芻する時間ともなったのです。