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ウラジヴォストークの革命家

金角湾を南に控えた、東西5㎞のメインストリート「スヴェトランスカヤ通り」は、ウラジヴォストークが外国人に開放されることとなった1992年まではレーニンスカヤ通りと呼ばれていました。ソ連邦崩壊直後に訪れた方にとっては、そのロシア革命の指導者を冠した通りの名を記憶に留めておられるかもしれません。
 町に初めて敷かれたこの大通りは元々「アメリカンスカヤ」と名付けられていました。東シベリア総督ムラヴィヨフ・アムールスキーが1859年に軍艦アメリカ号でこの地やってきたことからの命名です。次いで、アレクサンドル二世の四男アレクセイ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ大公が1872年にフレゲート艦「スヴェトラーナ」号で日本へ渡航した後ウラジヴォストークを訪問、市は敬意を表し通りの名前を「スヴェトランスカヤ」に変更、現在もその当時の名称が復活して使われているのです。
 この大通り散策をする上で目印となるのが、高さ75m、22階建ての沿海地方行政府ビルです。街のランドマークともいうべきそのビルがそびえる東側には「中央広場」、週末であれば露天マーケットで賑わう広場があります。スヴェトランスカヤ通りを挟んで北側のアールヌーヴォー様式のグム百貨店、近年洒落た雑貨のショップやカフェ等が建ち並ぶグム中庭も興味深い場所です。広場から東に進んでいくと、金角湾に架かる黄金橋が見え、その橋の手前左手奥の丘に「ゴーリキー記念沿海地方アカデミー・ドラマ劇場」のガラス張りのモダン様式建築が目に留まります。2017年に訪れた時に、ここで私はヨハン・シュトラウスの喜歌劇「ジプシー男爵」を鑑賞したのでした。劇場へと続く小公園には、夕べの憩いを楽しむ老若男女の姿が行き交い、穏やかなくつろぎの中に身を浸します。丘を上がる階段の半ばまで来ると、しゃがみ込みギターを抱えた銅像に出会います。ブレジネフ政権時代のソビエト体制を痛烈に批判しその叫びを独特のしゃがれた歌声で表現した吟遊詩人ウラジーミル・ヴィソツキー(1938-80)の銅像です。モスクワのタガンカ劇場の俳優でもあったヴィソツキーは1971年7月にウラジヴォストークのプーシキン劇場で6回の忘れ難いコンサートを行いその記念に2013年像が設けられたとのこと、自作の歌を通しての体制批判は人々の良心の表れでもありました。座した段には手書きの文字で「閉鎖していたウラジヴォストークの港が開かれた」と記され、当時を知る者には懐かしいその歌声が像の周辺に流れています。
 さらに、階段の踊り場には革命家セルゲイ・ラゾ(1894-1920)の凛々しい銅像が立っています。石の台座には彼の言葉が刻まれていて、読むと「私が立っているこのロシアの大地の為に死んでも誰にもここを渡したりはしない」とあります。日本ではあまり知られていないこのラゾという赤軍パルチザン部隊の若き指導者は、ベッサラビア地方(現在のモルドヴァ共和国)の貴族の家に生まれましたが、1917年ロシア革命と共にボリシェヴィキに身を投じ、国内戦でシベリア各地を転戦します。ソビト政権がようやく極東に及んだ1920年ラゾはウラジヴォストークに駐留していた日本の干渉軍に捕らえられます。革命軍と敵対する白衛軍の手に渡され機関車のボイラーに生きたまま投げ込まれたという凄まじい最期を迎える、そんな伝説が語り継がれているのです。後に知ることとなった私はおののくばかりでした。1918年4月にウラジヴォストークに上陸し1922年6月に撤退した日本軍の4年間に及ぶシベリア出兵に対して学び直さなければならないと思い知らされたものです。
 そういえば観光スポットの「中央広場」は「革命戦士の広場」とも呼ばれていて、そこで観光客がピースサインなどしてスナップ写真を撮る記念像は日本軍に目を向け極東ソビエト政権の為に戦った兵士たちを表しているのでした。
セルゲイ・ラゾの銅像


ゴーリキー劇場


ウラジーミル・ヴィソツキーの像

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